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Salvador Dali

 


 

 


                                525-0055

                 滋賀県草津市野路町404

氏名  小和田 哲弘

            学籍番号  622839 

 

 

 

序章

 

 

 

絵や美術に全く興味のなかった私を魅了した人物、それがサルバドール・ダリだった。ニューヨークの美術館で何がよかったのか、彼の作品(ガラの絵)の前で立ち止まり、しばらく見入ってしまいました。それがきっかけで美術館に足を運ぶようになり、いろんな作品を見てきましたが彼のような細かなタッチで、しかも幻想的、妄想的な絵を描いてる人は他にいないと思います。そんな数多くの作品を残したダリという人間はどんな人物だったのか?どんな考えの持ち主だったのか探っていこうと思います。

まずサルバドール・ダリとは何者なのかを明らかにするため、どんな人生を送ってきたのか、紹介とともに彼の生涯について書いている。そして同時に作品です。様々な人との出会いや時代背景と共に彼の作風には大きな変化がありました。時代とともにどういった変化があったのか書いています。最後に私の最大のテーマである彼の謎や考え方です。「人はいかにして天才になるか」を追求して生きていたサルバドール・ダリの秘められた素顔を探っています。なぜ彼のような画家が誕生したのか、またどういった考えから数々の作品を描いたのか追求しています。

美術というのは人によって見方も違えば感じ方も違います。ぜひ機会があれば本物を自分の目で見て下さい。そこで見たもの感じた物、それがサルバドール・ダリだと思います。

 

 

 

第一章

 

1. 反抗的な少年時代

 

 サルバドール・ダリ、本名サルバドール・フェリぺ・ジャシント・ダリ・イ・ドメネクは1904511日に、スペイン北部にあるジローナ県カタルニア地方の小都市フィゲラスで、サルバドール・ダリ・イ・クシと、フェリーパ・ドメネクとの息子として生まれている。父はフィゲラスの公証人であり、その地方で広く知られ尊敬を受けている名士であった。彼は地中海ぞいの小さな漁村ガタケスの生まれで、ダリ家はその地に別荘を持ち、夏休みをそこで過ごすのがダリの無上の喜びとなっていた。しかし一方で性格は激しい人物だったようで1901年に生まれ1903年に死んでいる、ダリと同じ名を持っていた兄の死は、この父が引き起こしたものだとうわさされていた。公式の発表では気管支炎とされているが、ダリによると父から頭にくらったパンチの一撃によって引き起こされた髄膜炎によって死んだとされている。両親はこの兄をこの上なく愛してたゆえに、彼の死は二人に大きな苦悩を残した。そしてその苦悩は幼いダリにも影響し、いつも兄と比べられ同じ服、おもちゃを与えられダリという個人ではなく、むしろ兄の生まれ変わりとして名前まで同じという扱いを受けていた。こうした扱いに直面したダリは、自分が自分であることを主張するために反抗をくり返すようになったのである。そしてダリはこう言っている

「毎日、私は父を憤慨のあるいは恐怖のはたまた屈辱の極地に追いやるために、また彼が私を、彼の息子である私、サルバドール・ダリを、不快と恥辱の対象とみなざるを得ないようにするために、なにか新しい方法を探した。私は毎日、これでもこれでもかと父を困らせ、仰天させ、怒らせ、挑戦したのである。」

ダリの反抗は、ベッドに意図的におしっこをしたり、痙攣のまねをしたり、凄まじい声で叫んだり、黙り込むなど、子供がよくすることもあったがものすごい高さから飛び下りたり、意味もなく小さな子を橋から突き落とすとか、妹の頭を蹴飛ばすなど訳のわからない攻撃的行動をとることもあった。また蟻が大量にたかった瀕死のコウモリを口の中に入れ、まっぷたつ喰い切るというほとんど異常と言えるほどの行動もしている。しかしこうした反抗、異常な行動は彼の芸術的考えに大きく役立ったといえる。

そして重要なことは、幼いダリは芸術的刺激もこの父から受けたのだった。父は息子に有名な個人画集を買い与え、ダリは複製画をくり返した。そしてこれらの画集が、彼の写実主義傾向とともに、19世紀のアカデミズム美術に対する一貫した愛着をうえつけた。そして9歳の時、古い虫食いのドアの裏にさくらんぼの絵を、果実には橙色と紅色だけを、ハイライトには白だけを使って描いたのだった。描かれたさくらんぼに本物の柄をはりつけるなどし、はじめて現実と仮象との境界を混乱を感じたのだった。その後、美術学校に進み地方の美術展に作品を出品し「栄光を獲得するに違いない人物」として、得別の賞賛を受けた。

 

2.アカデミーでの出会い

 

 1921年9月に名門美術学校であるサン・フェルナンド美術アカデミーに入学するため、ダリはマドリッドに行った。彼の父はそうした将来性のはっきりしない職業に対し一応、反対しているが、実のところ当時不安定だったダリが目的を持ってくれたことに安心していたのは明らかだったとされている。

File written by Adobe Photoshop 4.0アカデミーの入学試験は6日間にもわたり行われ、彫刻のデッサンもその中に含まれていた。ダリは要求された大きさに描かなかったにもかかわらず、その正確な描写、技術は大変すばらしいものだったので、作品のサイズのことは見逃されて入学したというエピソードもある。

しかしダリは、そのアカデミーでの授業にいっさい満足することはなかった。それはアカデミーで教えていた印象派は確かにすばらしい物であったが、彼はすでにそれを研究しつくしていたからである。また同時に印象派が優先になったアカデミーでは教えられなく

                   マドリッド美術学校で(左下)1922年頃

なった、伝統的な技術に当時ダリは魅せられていたからである。このアカデミーがダリの芸術的発展にとってあまり意味がなかったが、大学の寮で出会った友人達はダリに大きな影響を与えた。

それは当時哲学専攻の学生で、のちに映画監督となり、ダリとも一緒に映画作成をしたルイス・ブニュエルであり、またスペインで最高の近代詩人で劇作家でもあるフェデリコ・ガルシア・ロルカであった。

この時期までに、ダリはさまざまなスタイルの描き方に挑戦している。ピカソに影響され、高度な写実的表現を研究していた一方で裸婦の油彩画を何点も描いたり、流れるような線のみで描いた線描法などである。

File written by Adobe Photoshop 4.0File written by Adobe Photoshop 4.0 

 

創造という点からするとロルカとの関係は重要なものであった。なぜなら、二人の友情は、彼等に共通するシェルレアリスムへの関心を強化することになったからである。しかし、二人の共感は、ホモセクシャルであるロルカにとって恋へと変わっていった。ダリはバイセクシャル(両性にひかれる)タイプであり、またアセクシャル(性をもたない)タイプであるとさえ言われていた男であったため彼の愛情に応えることはできなかった。おそらく性的実験精神から、2度にわたり彼との性的関係を許している。しかしこの実験はダリにとって失敗に終わったと思われる。なぜなら、後に次のように言っているからである。

「私は彼の威光に縮みがあった。心の底で、彼は大詩人なのだから神のごときダリの尻の小部分をもって彼の恩恵に報いなくてはならない。」

 

. シュルレアリスム

 

 1920年代の終わり頃、シェルレアリスムについての知識がスペインの画家の間で広まった。シェルレアリスムは日本語では「超現実主義」と訳され、潜在意識を、意図的なやり方で意識の世界に開放し、合理的思考ではなく、より素直な世界を表現しようとした芸術運動グループから始まったもので、多くの画家が参加し作品にも影響を受けた。その中にダリもいたのは言うまでもない。

しかしダリにとって、そのような不合理性そのものを明瞭に表現する直接的手段は、満足できないものになっていく。そのかわりに、事物の普通の外見と非現実との間に新しい結びつきをつくりだすことへ関心を移していった。ルネサンス以後発見された遠近法に基ずく伝統的な空間と写実的に描かれた風景、つまり本物のような周囲の環境に、不思議なこの世のものではない物体を組み合わせていくようになった。特に1927年から1928年にかけてスペイン出身の画家でシェルレアリスムでもあったミロに影響されている。

                             水浴の女

File written by Adobe Photoshop 4.0

 この作品の人物の形はミロの影響が顕著にあらわれていて、グニャグニャした柔らかい形になっている。その背景には本物の砂がしかれていてこの当時のダリの考えが想像できる。このような背景を用いることによって、ダリは自分の経験を扱うのに実に効果的な伝達手段を獲得した。そしてやがてこの風景の採用は、彼の芸術の主要な力のひとつとなり、彼の非現実観をおさえるのにおおいに役立ち、彼を20世紀の第一級の風景画家にまでするのである。

 


. ガラとの出会い

 

 ダリにとってガラの存在は大きなものになる。本名ガラ・エリュアールはロシア人で、1895年の生まれであった。青春期に結核にかかった彼女はスイスで療養することになり、そこで夫であるエリュアールと出会った。

1929年の夏、ガタケスにいたダリは激しい性的ヒステリー状態にあったようFile written by Adobe Photoshop 5.1で、それはコントロールできないばか笑いの持続的な発作で、その当時描いた《倬ましい遊戯》に強調されるような状態であった。そんな状態の中、夫と同行したガラと出会い、彼女に魅惑されたのは、表面上は抑圧しなければいけない感情故に、いっそうダリの性的フラストレーションを高揚させたのだった。

そしてガラも彼に引き              ポ−ル・エリュアールの肖像

付けられ、二人の関係は始まり、その後すぐにダリのヒステリー症状は消えた。ガラが本物の狂気から救ってくれたのだと、それ以後彼は確信している。

ガラと出会った後、ダリはパリでの個展のための作品製作に没頭するようになった。その時、彼は最も洗練された代表作と言われるうちの何点かを製作した。

たとえば前ページにある《ポール・エリュアールの肖像》である。大胆にもガラの前の夫であるポール・エリュアールにモデルを依頼し、彼は寛大なことにダリを許したのだった。ダリはこの作品を描くことで妻を奪ったという罪の意識を癒そうとしたのではないかと考えられる。また下にある《欲望の謎》もこの時期に描かれた作品で人が夢を見ている時の感覚を投影したものであると思われるアメーバ状のぐにゃぐにゃした生命体がここでも眠っている。

 

File written by Adobe Photoshop 5.1

 

 

 

 

 

 

 

 

この個展を大成功におさめ、彼の評価は観衆や批評家などにゆるぎないものとなった。これをきっかけにダリはかつてないほど忙しく働きパリ、ニューヨークなど各地で個展を成功におさめていった。

 そして1930年になると、ダリの妄想、幻覚症状は強まり、まったく違うタイプの対象間に存在しうる鋭い類似性を見い出し、いろいろなイメージの連合をつくり始めた。つまり次ページにある《浜辺に出現した顔と果物鉢》にみられるような、視覚的に似たものと、異なったものが集合してひとつの頭となっている、といった合成イメージが生み出されたのだった。

こうした物の外見にひとつ以上のイメージを見ることのできる能力は、小学校時代からあったものらしく、ダリ自身次のように言っている。

File written by Adobe Photoshop 5.1

「教室のくすんだ四方の壁におおいかぶさっている巨大な丸天井は、ところ            どころが茶色の雨のしみで変色していた。そのしみの不規則な輪郭は、しばら   くの間、私の慰めのすべてだった。精魂つき果てるまで果てしなく夢想にふけっている間中、私の眼はあきもせずに、これらのかび臭いシルエットのおぼろけな不規則性を追い続け、はじめは雲のように形のない混沌から、しだいに具体的なイメージが湧き起こり、それがだんだんに明確で、細部まで明瞭な、現実的な人格が賦与されるまでになるのを見ているのだった。日がたつにつれて、多少の努力の後で、私は前に見たイメージをひとつひとつ再現できるようになり、それからはこの幻覚的作品を完成させようと夢想を続けたものだ。発見したイメージが慣れのせいで、あまりにも親しいものになり過ぎると、それはしだいに感情的な興味を失い、一瞬にして別の何かに変容してしまうので、同じひとつの説明さえ、次から次へとはなはだしく違った、相対立するような 形状にやすやすととってかわられ、新た

 


な解釈がほどこされる。そしてこれが     

  

 

無限にくり返されるのだ。」

やがてこのような能力は、横にして見た時はアフリカの村に見えた絵葉書を、90度回転させ縦にして見たら、ピカソの描く女の顔の絵に見えた、という発見の体験などによって、いっそう高められた。

またダリはたまに、夢を絵の出発点として使うことがあるが、普通彼のイメージに役立っているものは、高度に発達した、そして深い想像力、目覚めた「内なる眼」であった。このような、様々な事物の外見を関係づける能力は、「メナード・パラノイアックークリティック」と呼ばれ、日本語では「変質病的批評的方法」と訳される。彼は1930年頃以降、その方法に磨きをかけていった。この方法に従って、いろいろなイメージや観念の連合が極限まで追求された時には、それは荒々しく想像力に満ちた、幻覚的な心の状態を生み出すことができたのである。

 上記の絵を見てもわかるように、彼の作品は学生時代、シェルレアリスムの影響、そしてガラとの出会いによって大きく変わっていった。特にガラの存在は大きく、彼の芸術の主要な柱となるものを導きだしたと言っても過言ではないだろう。

 

. アメリカでの成功?

 

 1934年の11月に、ダリ夫妻はアメリカのニューヨークに向けて出航し、そこに1月まで滞在した。アメリカにおける最初の展示は、1931年にコネティカ州ハートフォードで行われたグループ展への出品だった。それにつづいて1933年にジュリアン・レヴィ画廊で最初の個展が開かれた。そして第2回目の個展のためアメリカに旅立った。個展を成功におさめた彼は、つづいてニューヨーク美術館で講演をするなど、その名はたちまちアメリカ中に広まった。またこの当時不景気の頂点に達していたにもかかわらず、イギリス人の美術収集家エドワード・ジェームスと契約し、ダリのもっとも重要な作品を売ることを約束した。その時からダリ夫妻は特にガラはお金を愛し、生き方の根本的変化が支配しはじめる。1940年のアメリカへの移住は、彼にとってかならずしも成功と呼べるものではなかった。なぜならこれ以前の作品は、これ以後の作品よりもはるかに充実していたからである。

それまでの彼は、まぎれもなく独創的に、先に書いたように、彼の精神の最も深いところで世界と格闘しており、そして多くの傑作を生み出してきた。その上、彼の時々の悪ふざけさえも、ごく自然に見えていた。しかし、1940年以降は、とりわけ、今まであった財政的支援が消えてしまってからは、お金をつくるという目的に変わってしまったように思われる。一方、第二次世界大戦が終わると、自然科学や宗教や歴史的主題に新しい関心を寄せるが、それは、潜在意識に対する彼の探究が次第に力を弱めていき、何か、より計算されたものにとって代わられつつあることを意味した。もちろん、自然科学や宗教や歴史的主題に対するダリの熱中について、向いてないとは思いません。しかし、これらの関心が、はたしてダリのイメージを何か創造的な向上に、また新しい美的体験だったかと言うと、それは疑問である。なぜなら、彼の後期の自然科学、宗教的、歴史的絵画は、たいていの場合、何か革新的な美的センスを備えているという訳ではなく、下にあるように、たんに挿し絵のように見えるから

File written by Adobe Photoshop 4.0

である。

                         聖アントワーヌの誘惑

 たしかに、引き延ばされた脚を持つ象は、すばらしい想像力に富んだ思いつきである。しかし、これはダリの心理学的な反応を投影しているのではなく、画面左下に描かれている聖人の見た幻覚的ビジョンをわれわれにしめしているのである。ダリはその生き生きしとした想像力を、ただたんに聖人の神秘体験を表現するためだけに使っているように感じる。そしてまさにそのせいで、この絵は、何か超視覚的プログラムをイメージさせるだけの、たんなるハリウッドなどにあるイラストレーションにきわめて近いものになってしまっている。こういった作品が後期に多く見られるようになっていく。

ダリのアメリカ時代は、ひじょうに活動的であった。彼は上流社会とつき合い、にわか景気の軍需経済が国中に新しい金持ち階級を生み出しているような、そんな時代をあてにして自己実現をはかっていく。かつてないほど時間とお金を持ち、ときには芸術作品を購入したがる傾向のある新興金持ち階級は、彼らの社会的地位を上げるために、今や大規模に芸術作品を買いはじめたのである。そのような新しい経済力に手を伸ばすために、ダリは自己宣伝の有効性を最高に利用して、アメリカの上流階級のそうした部分の人々に従った。彼らは、明らかにダリが示している危険さとたわむれることのスリルを楽しんだ。

この時代に、ダリは社交界の人々の肖像画をかなり描き、1943年にはそれらを集めてニューヨークのネドラ−画廊で展覧会を開いた。また彼は1945年には、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画「白い恐怖」の夢の場面に協力するため、ハリウッドに行った。ヒッチコックは、夢とか悪魔とかは、ときとしては決しておぼろけなものではなく、まったくその反対のこともあると考えていたので、くっきりとした遠近法の焦点をもった超現実的イメージを、つまり典型的なダリのタイプを望んだ。ダリはまさに衝撃的なイメージで彼に応えた。そのイメージの中には、描かれた多くの眼がカミソリによって切り裂かれていく場面があるらしいが、これは明らかに1929年にブニュエルと製作した「アンダルシアの犬」(注1)の眼を切る場面に由来していると思われる。

             (注1)この映画を探したが、すでに廃盤になっていた

 

6.シュルレアリスムとダリ

 

File written by Adobe Photoshop 4.01948年に、ついにダリ夫妻はヨーロッパに帰った。それ以後、彼らは規則正しく冬はニューヨークで過ごし、残りの季節をパリとポルト・リガトで過ごすことになる。この頃には、シュルレアリスムの先導者であるアンドレ・ブルトンはダリをこの運動から除名し、かくて長年彼に対して抱いていた不満に決着をつけた。と、言うのは、ずっと前の1934年に、ブルトンはダリの作品《ウィリアム・テルの謎》のなかでウィリアム・テルの顔がレーニンの肖像になっているのにひどく腹をたてて、その絵を壊そうとして失敗したことがあった。また、ブルトンは、ダリがマルクス主義に少しも熱中していないことやヒトラーへの感嘆を公然と示したことに憤慨していた。しかし、このヒトラーへの態度は、ダリが純粋にヒトラーを愛好していたからではなく、むしろブルトンを怒らせたくてたまらない彼の熱望から生み出されたもののようである。このような度重なる挑発の結果として、1934年2月5日にブルトンは、パリのダリのアトリエで彼を裁判にかけたのである。このときインフルエンザのため熱が高かったダリは、体温計を口にしゃぶっていたため、ブルトンと仲間の陪審員たちは、彼の言うことがいつもにまして聞き取りにくかった。結局そのときは、ブルトンはダリがグループにとどまることを許した。しかし1948年には、ダリのお金に対する貪欲さがブルトンにとって、またシュルレアリスムにとってふさわしくないし、          彼はこの運動から除名されざるを得なかった。しかし、この除名が、ダリにとって不運だったとは思えない。

なぜならこの除名はいろいろな意味で納得のいくものであった。まず、             

ダリは上記で述べたよう             十字架の聖ヨハネのキリスト

に1940年中頃には、1930年ほどには潜在意識と非合理の探究をしていなかった。彼はファンタジーを描き続けていたが、ファンタジーはシュルレアリスムと同一物ではない。なぜなら、ファンタジーはたんに現実をきれいに飾るものだが、シュルレアリスムは根本的には、合理主義の流れに 逆らって作用するものである。1940年中頃から、ダリの作品は、一見して非合理と見えるようなイメージに根ざすというより、合理的に理解可能な体験に支えられていることの方が多い。例えば、戦後のダリの最も有名な作品のひとつである《十字架の聖ヨハネのキリスト》においても、風景の上に漂っている十字架とキリストは、この聖人が神秘的な忘我の状態で見た幻影でありそこには1930年代の反宗教的、反社会的シュルレアリスムはもう存在せず、宗教的なものが表現されている。

 

7.流行になったダリ

 

1950年代を通してずっとダリは商業主義として走り続けた。彼は自分を常に「神のごときダリ」と呼んで、自分の評判にみがきをかけ、あらゆる機会をとらえてマス・メディアを巧みに利用した。1945年頃からのちは、戦後世界におけるマス・メディアの広がりが、芸術家はいかにあるべきかという社会の期待をすっかり変えてしまったということを、また、どのようにして人目につく過激なポーズでこれらの商業主義的期待に適応していくべきか、ということを彼なりに理解し、つねに流行の煽動者になろうとしていたのである。その上1960年代の中頃から、彼は西欧美術の歴史に例のない商業的経営の中心にあった。ダリは自分のあらゆる局面を商業科することで、つまり「ダリ灰皿」とか「ダリ香水」などあらゆる方面で自分を売っていった。

しかし、この頃のダリ夫妻のライフ・スタイルは、明らかに巨額のお金を必要としていた。ニューヨークではいつもホテル・モーリスに滞在し、気前よくチップを払った。またガラは大金をかけてギャンブルするのが大好きだった。そしてそのことがなおさら収入の必要を高めていた。ダリはこれらのプレッシャーに直面して、1960年中頃に、版画のコレクターをだます大掛かりな詐欺事件にかかわっていたのである。

通常、版画は画家のサインを入れて、刷りの番号をつけて発行される。サインは出来上がりを確認するものであるから、版画が刷り上がった後にのみされるものである。いったん予定数が刷り上がったなら、印刷原版は、その版の限定性と各印刷された版画の価格を維持するために破棄される。一つの作品の出版において限定数が少なければ少ないほど、その市場における転売価値はいっそう高まるのである。1960年代の中頃まで、ダリはこの習慣を尊重してきたが、それ以降は、白紙の版画用紙にサインをし始めた。その数は、4万マイから35万枚にのぼったと見なされている。そしてこれらの白紙には、後でダリの絵が写真製版によって機械的に印刷されて、ダリ自身の手になる本物の版画として売られた。その上、ダリのサインを偽造することも難しくないとわかった。そこで、当然、ダリのサインをただ印刷しただけの、たくさんのニセ版画が売られた。この食い物にされるにまかせた、投げやりなやり方の結果として、ダリの版画の取り引きは混乱し、たくさんの人々が価値のない印刷を買わされるはめとなった。このように商業的価値を下落させることによって、ダリは美術品市場の途方もない商業主義に対して一泡吹かせたと考えることもできる。しかしダリが偽造したのは版画のみではなかった。次第に、彼のスタジオの助手たちに、彼の作品を部分的に手伝わせることから、彼らがダリの流儀で絵全体を描くのを許す方向へと変わっていったのである。結局そうして出来上がった作品に彼はサインをし、全部彼自身の手で描いたという保証を与えてしまったのである。この理由から、1980年代に描かれた作品の多くは、いずれもひじょうに疑わしいと見なされている。

 

8.

 

1974年9月に生まれ故郷であるフィゲラスに作品を展示するためにダリ美術館を開館させた。また、アメリカ人のコレクターであるレイノルズとエレノア・モース夫妻は、1940年代初期にダリの作品を買いはじめて以来、ダリ作品の最高の個人コレクションを築き上げてきたが、1971年に彼らは彼らのホームタウンであるクリ−ヴランド州のオハイオから、フロリダ州のセント・ピーターズバーグに建てた新しい美術館にそのコレクションをうつしたのである。

そのうえ、ダリは人生の晩年期において大変な名誉を受けた。カタルニア地方議会からゴールドメダルを授与され、また1983年にはマドリッドの近代美術館でも個人展覧会が行われるなどした。しかしながら、この時代はダリにとって悲しい年月であった。彼は、パーキンソン病であったとは思われないのに、時々、その病気と診断されるようなさまざまな症状に苦しんだ。そして彼は死を恐れた。何人ものとりまき連中に囲まれていたが、しだいに孤立していった。すでに壊れていたガラとの関係は、彼女がプボルの城に隠れるように行ったとき、最終的に壊れた。この城はフィゲラスの近くにあり、ダリが彼女のために買ったのであった。そこ出ガラは80歳を越えていたが、若い恋人たちといた。ガラは、1940年代以降から一貫していつも若い愛人たちと関係を持つことでダリの性的無能の埋め合わせをしていた。にもかかわらず、彼女はダリの宇宙の中心でありつづけた。なぜならダリは、宗教画を描くときのモデルとしてはガラしか考えず、たくさんの彼女の絵を描いてきており、心から彼女を神のごとく思っていたからである。そして、1982年7月10日に彼女が死んでからは、彼は精神的に崩壊した。1984年8月30日に、寝ている間に火事でひどい火傷を負った。この事件のあとで、ダリは火傷だけでなく、医者たちに取り囲まれながら栄養失調にもなっていることが明らかになった。というのは、毒殺されるかもしれないという妄想を抱いていて、食べることを拒否していたからなのである。

サルバドール・ダリは1989年1月23日に、フィゲラスで亡くなった。1930年以来60年間にわたって、彼は第一級の著名な人物でありつづけた。そして少なくとも最初の10年間は、彼は確かに近代主義者の最前線に立っていて、今なおわれわれの好奇心をそそり、心をかき乱す力を失っていない作品を生み出していた。たとえ、それより後期の彼の作品の大部分は、独創性と想像力の豊かさという点から見て、やや説得力に欠けるとしても、それはいまだに視覚的意味と刺激に対して貪欲な人々に、ただならぬ魅力を示し続けている。そして、ただたんにその並外れた技術的熟達という理由からのみでも、すべての彼の絵はけっして人の眼を引き付ける力をうしなうことはないだろう。

 

 

 

第二章

 

サルバド−ル・ダリ

 

 ダリの絵は、第1章でも書いているように、一般に幻想的・妄想的なものと思われている。しかし、まず何よりも事実というものに執着していたのではないかと感じる。つまり、見えるものに対してあくまで忠実なのである。彼の絵によく見られるねじれた山、波のような臓器、溶けだす岩などのイメージはガタケスの浜辺の光景からはなれることはなかった。ダリは地中海に降り注ぐ強烈な光があばきだす物質と精神が交差する形を見つめ、夢と現実の境界を観察し続けたのだった。人物やガラの背中にしても、パンのかけらにしても、とにかく視覚に忠実であろうとしたのだ。

それならばどうしてダリの絵は、幻想、妄想としてあらわれるのだろうか?それは彼の眼に現実とは、彼の絵のとおり写っているのではないかと思う。ガタケスの浜辺で世界を凝視し続けるダリにとっ                                                                                        

ては、内部の現実、                                          内乱の予感

歪んだ現実が見えるのではないだろうか。

もちろん他の多くの画家たちもダリのように幻想的、妄想的な絵を描ている。しかし彼らの多くはドラッグやアルコールの力を借り、絵を描いていると一般に言われている。ダリの場合、真実は彼にしかわからないが、彼の本や彼について書かれた本を読む限りでは、ドラッグなどを毛嫌いしていたようだ。だからこそ、彼の絵には人を魅了する力があるのではないかと思う。ふだん普通の人が見ることのできない、また体験することのできない世界をダリはいつも見ることができたのだ。私の一番好きな絵である、上の《内乱の予感》を見てもわかるように、まるで人間のおぞましい本来の姿を描いているように私は感じる。画面右下にあるグニャッと曲がった排泄物、右手が表す人間の性欲、そして今にも地球を飲み込んでしまいそうな表情と巨大な体。やはり、彼の眼に人間はこの怪物のように写っているのではないかと思うのです。事実、人間とは外見が違うかもしれないが、そういう生き物ではないでしょうか。つまり妄想や想像の世界ではなく、彼は本当に見えているものを正確に、そして細かく描いていたのだと思うのです。そして第一章の絵の変化を見ても明らかにわかるように、ガラの存在も忘れてはいけない。彼女と出会う以前は精神病的絵画としてしか見られていなかったダリの絵を、他の人々に理解させるまでにしたのはガラだったのだ。ダリは本当に彼女を愛し、彼女の絵を何枚も描いている。今回は残念ながら見つけられなかったが、そのうちの一つがニューヨークで私が見た絵だったのです。この出会いは二人にとって衝撃的なものであったし、20世紀の美術史上においても大きな事件だったのは間違いない。一人の女性の存在が、これほど画家の人生を大きく変えた例は他にはないのではないだろうか。

 そんな彼が私達に残していった多くの絵はもっと自分を素直に見つめろと言っているように私には聞こえてきます。自分の人生を自分らしく生きていくことは非常に難しいことです。しかし心の眼で世界を見ることで少しは自分というものが見えてくるはずなんです。そんな現実よりも現実的な超現実世界を彼は描いているのではないでしょうか。

私は彼の絵に魅了され、新しい世界を、そして何よりも新しい自分を発見することができたと思っています。序章でも書いたように、絵というのはその人次第で感じ方が全く異なります。もし機会があれば、ぜひ一度ダリの世界を自分の眼で見てほしいです。そこで感じたことがサルバド−ル・ダリであり、あなたの新しい世界、そして自分だと思います。

 

 

参考文献

 

わが秘められた生涯/サルバド−ル・ダリ 著/足立 康 訳

                     /新潮社 1981

 

ガラ 炎のエロス/ドミニク・ボナ 著/岩切 正一郎 訳

                    /筑摩書房 1997

 

ダリ 異質の愛/アマンダ・リア 著/北川 重男 訳

                    /西村書店 1993

 

現代世界美術全集 NO,25 Dali/集英社

 

ダリ美術館/ http://www.daliweb.com/

 

Salvadol Dali/ http://home9.highway.ne.jp/style/free/dali/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サルバド−ル・ダリ 最後の作品の前で 1983年

 

 

 










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